2023/1/2~2023/1/8

1/2
13時に実家の最寄り駅を発ち、17時に東京駅に着く。新幹線の車内で、今度こそTwitterを封印して、佐々木敦『映画的最前線』を読んだ。読むのは二度目で、やはり熱量の高い文章だと思う。
 戦いは不断に行われている。
 パリで、ベルリンで、ロンドンで、香港で、マドリッドで、ニューヨークで、ポルトガルの白い町で、メキシコの荒野で、スイスの湖畔で、ハリウッドのど真ん中で、そして、東京で。
 世界中のあちこちで、勇敢な兵士たちが、時にしゃにむに突進し、時に後退を強いられながらも、休むことなく戦闘に従事している。じっと目を凝らしてみれば、はるか遠くで火花が散ったり、土煙が昇っているのが見えるだろうし、注意深く耳を澄ましてみれば、微かに銃撃の音も聞こえてくるはずだ。
 必ずしもお互いを知っているわけではない彼らは、だからけっして共同戦線を張っているのではないのだが、しかし同じ戦いを、同じ側で戦っている。それぞれの場所で、それぞれの戦い方で、それぞれが孤独に戦いながら、しかし戦場は実はひとつなのだ。
 この戦場は、映画とよばれる。
闘争映画批評宣言 あるいはゴダール・レッスン
巻頭の「闘争映画批評宣言 あるいはゴダール・レッスン」と題されたこの小文は、のちに自らをかりそめにも王と名乗り(『批評王』)、老獪な文章を書く佐々木とはほんとうに同一人物なのかと見紛うほど、才気煥発、熱気に溢れている。
 現在、性懲りもなく尚も続々と撮られつつある多数のフィルムについて、何か正しい悪口を言おうと思ったら、したり顔でこう呟いてみせれば良い。この監督は顔の撮り方を知らない。あるいは声の聴かせ方がなっていない。まず大抵は当たっている。
/顔を聴く、声を見る
1993年出版の、佐々木のデビュー作である。傲岸不遜なこの感じがすごく良い。ありていにいえば、偉そうである。映画作家との軋轢を恐れず、歯に布着せぬ物言い。同じ若手の批評でも2020年代前後の若手によって書かれたものを読むと、どれも謙虚で、リベラルで、差別について理解があり、自らの加害者性にも自覚的であり、お行儀が良い、ので佐々木の傲岸不遜さが新鮮に映る。
しかし、かつてはこのような書きぶりを披露した佐々木も、直近の児玉美月との共著作『反=恋愛映画論』では、「LGBTQを描いた作品を中心に…(中略)…シャープでストロングでブリリアントなテクストを尋常ならぬエネルギーで日々生産している」と謙虚に児玉を評価し(もちろん児玉の批評文はシャープでストロングでブリリアントなので正当な評価だ)、恋愛が得意分野ではないからだろうが、謙虚にも、いそいそとおそるおそるご意見を伺いに行く体である。
今や依然として偉そうなのは上野千鶴子蓮實重彦くらいで、知識人も文化人もお行儀が良いものだから、若き日の佐々木の文章は粗削り感は否めないけれど、熱量と文章のドライブ感で嫌味のない偉さがにじみ出ていて読んでいて楽しかった。ここで言う「偉さ」は、自らが権威になる、という自負のことだ。(そして正確には、蓮實は偉そうなのではなく、ちゃんと権威を引き受けているので、偉い、のは自他共に認める通り。)
 
1/3
冬休み最終日。記憶がない。
 
1/4
仕事始め。出社して、帰りに新宿紀伊國屋で本の買い初めをする。『ピンポン』と『クリームソーダシティ』。後者は完全にジャケ買いだった。
夜にヴィム・ヴェンダースの「パリ,テキサス」を観る。
 
1/5
仕事をしていたはずだが、記憶がない。
 
1/6
仕事。特に可も不可もない日だった。特に書くこともないので、別媒体にペンネームで寄せた、本のMy Best of 書き出しについてのエッセイを転載する。
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週末にハゲタカどもが大統領府のバルコニーに押しかけて、窓という窓の金網をくちばしで食いやぶり、内部によどんでいた空気を翼でひっ掻きまわしたおかげである。全都の市民は月曜日の朝、図体のばかでかい死びとと朽ちた栄華の腐れた臭いを運ぶ、生暖かい穏やかな風によって、何百年にもわたる惰眠から目が覚めた。

―ガルシア=マルケス『族長の秋』(鼓直訳)

この有名な、陸生の大型動物がその図体をもたげるかのような書き出しは、ラテンアメリカ文学に――特にガルシア=マルケスを読むときによく出会うのだけれど、書き出しのテンポの悪さが気になりつつも、しかし、何もないところから自分の文章だけで世界を立ち上げていくためには、どうしてもこのぎくしゃくとした文章で書き始めざるを得なかったのではないかと、あるときふと思い至ったのだった。
このささやかな発見は、文章を読んだり書いたりするときに、それが日常と接続しているかどうかを、私に問うようになった。ガルシア=マルケスのように日常を切断し、異質なものを挿入するようにして始まる文章は、読み始めた読者をつまづかせるが、それでもそこから起き上がることのできる人がいることを信じて書かれるのだろう。勝ち目の薄い賭けに乗るときの、それでも、という書き手の祈るような美しい感情のことを思う。
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1/7
「そばかす」を観たかった。早起きして、HPで字幕付きであることを確認して、新宿シネマカリテに行ったのだけれど、念のため聞いてみたら字幕上映ではなく、HPの記載は間違いです、と言われて、ショックのあまり買おうとおもっていたパンフレットを買い逃してしまった。
心ここに在らずのまま、近くの新宿紀伊國屋に行って、そういえば文藝の批評特集号って今月だったっけと思い、文藝の2023年春号を買って、ついでに岡崎裕美子『発芽/わたくしが樹木であれば』を買って、永井亘『空間における殺人の再現』を買って、水原紫苑『快樂』を買って、おそらく財布からは一万円ほど消えたけれど、「そばかす」が観られなかったショックで心が麻痺していて、あまり痛みを感じない。
別の映画を観ようと、都営バスで早稲田松竹へ行って、「ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン」と「WANDA/ワンダ」のチケットを買った。12時過ぎに行ったら、すでに14時上映回は満席で、そのあと列に並んで、16時のを取った。上映時間までは、早稲田のCARESSで文藝の批評特集を読んで過ごした。映画は、「ジャンヌ・ディエルマン」は体感時間で殴られる感じの凄みがあり、「ワンダ」はそれなりだったが、いかんせん期待値が高すぎた。
 
1/8
服と靴を買いに行き、外が寒くてすぐおうちに戻り、戻りしなにミニストップでかったPBのスナック菓子をつまみながら、「市民ケーン」を見た。
ゴダールとの対談を読みたくて古本で注文していた、村上龍『世界をボクらの遊び場に』が届く。ゴダール村上龍の対談で、手話について触れられているやり取りがあり、それをどこかで(ゴダールの権威性を借りるために)引用できないかと目論む腹積もり。

2022/12/26~2023/1/1

2022/12/26
仕事の一日。今日から日記を付けていきたい。私的な日記はコロナが始まる前からずっと付けていて書くこと自体には抵抗がないので、あとはいかにして人様の目に耐えられるものに出来るかが悩ましい。
2022年の振り返りをしながら、文章をあまりにも書いていないことに気が付いた。書けないのである。書きたい批評もエッセイもそれなりにあるのに、あまりにも筆がなまっているので、人に読んでもらうための文章を書くリハビリをも兼ねている。

 

2022/12/27
4時くらいまで映画を見ていたので、昼前に起床。仕事休みで平日なので、友達に文フリでお使いを頼まれていた、「外出 7号」「外出 8号」をようやく送る。東京で今日の昼過ぎに出せば、29日には岐阜県に現物が届くという。こんなすごいサービスを140円で提供してくれるのだから、日本郵便はすごい。
読書日記としたいけれど、本が読めていない。映画は観れる気分だったので、夜にセルジオ・レオーニ「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト」を観る。通しで見るのはたぶん三回目。
セルジオ・レオーニ作品が苦手だ。というよりもマカロニ・ウエスタンと呼ばれる西部劇ガンマンもののジャンルが全般的に苦手だ。むさ苦しい男たちが、歴史を背負い、プライドを懸けて決闘するという構図に、全然乗れない。けれど、観てしまうのはやはり作品の持つ魅力が魔性だからで、好きなキューブリック作品よりも真剣に観てしまう。
いつかどこかで読んだ本のなかで、押井守が「映画はその作品固有の時間が流れていることが本質だ」というようなことを書いていた。確かに、映画はその作品固有の時間が流れ始めたところから映画になる。つまりは「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト」の、たとえば冒頭のあの冗長なシーケンス(それは日常の時間と切断されている異質な時間が日常に無理やり挿入された感じがする)によってはじめて、作品はわたしに映画としての相貌を見せてくれる。押井守のいうような作為ある時間こそが、(もちろんそれだけではないだろうけど)映画を映画たらしめてくれるひと振りの魔法なのではないかと思う。

 

2022/12/28
仕事納めの日だった。といっても在宅で今年の残作業を黙々とこなして、上司とテレカンで雑談をして、最後に良い年をお過ごしくださいと言って、つつがなく仕事は納まった。
休みの人が多く、メールが少なく、平和な日で、いつもこんなふうに仕事が出来たらなんて素晴らしいだろうかと思った。

 

2022/12/29
冬休み初日。帰省するときの父へのお土産として、浅草であさりの佃煮としいたけの佃煮を買う。夜に職場の元同僚に呼ばれてクラシックの室内楽コンサートに行った。好きなヴァイオリン奏者の演奏しているときの佇まいがうつくしくて、それだけで行って良かったなと思えた。今日も本は読めなかった。

 

2022/12/30
14時に東京駅を発つ。新幹線の中で読むための本を持ってきたのに、結局Twitterを開いてしまった。
香川に着いて、夜に高校時代の同級生と焼肉に行った。私以外全員車で来ていた。オレンジジュースやウーロン茶を片手に、思い出話や近況報告をネタに阿呆なことを言って、ゲラゲラ笑って、よいお年をと言い合って、解散した。

 

2022/12/31
田舎の退屈が苦手だ。都会の退屈と違って、なにか新しいことや面白いことが生じる予感が全くしない退屈が苦手だ。
午前中に近くの温泉に行った。温泉の近くには20年前に通っていた小学校がある。お風呂に入った後、散歩がてら、当時の通学路をなぞるようにして歩いて帰った。
歩き始めこそ懐かしさでわくわくしたものの、次第に退屈になった。変わり映えしない畦道。変わり映えしない住宅地。深緑の静かな貯水池に、あたらしい卒塔婆がまばらに差してある墓群。大晦日だからか人影は見えず、空気は冷たかった。歩いても歩いても間延びしたような風景が続き、遅々として進まぬ時間が重りのようにまとわりついていた。
夜に佐々木敦『映画的最前線』を読むが、なかなか集中出来ず、頁が進まない。

 

2022/1/1
少し離れた町に住む母方の祖父母宅へ新年の挨拶に行った。いつも「お〜よく来た!」と笑顔で出迎えてくれる祖父が見当たらない。祖母に訳を聞くと、この間入院したという。私は気遣われて、その事を知らされていなかった。
歳も90で以前より衰えをみせていたが、昨年12月の半ばについに立ち上がれなくなり、そのまま入院したそうだ。入院してからはコロナのご時世で、祖母も母も全くの面会謝絶状態だという。祖父は病室で1人、正月を迎えているのだろう。
帰りに祖母から、金陵という日本酒を貰った。香川特産の銘柄である。祖父が昨年のお盆に私と飲むことを楽しみに用意していたお酒だったそうだ。私は仕事が忙しいから、と言ってお盆に帰らなかった。
そして、あれだけお酒が好きだった祖父は、もうお酒を飲むことが出来ないと聞いた。また、祖母も母も、祖父がおそらくはもう家にも帰れないことを覚悟している。結局、祖父の顔を見ることなく祖父母宅を後にした。幼少の頃、祖父にたくさん可愛がってもらってきたことを思い出して、人のいないところで少しだけ泣いた。